古代出雲の原像をさぐる・加茂岩倉遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
strong>本, 田中 義昭
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によって 田中 義昭
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内容(「BOOK」データベースより) 出雲平野の背後に連なる山々の懐深く、三九個もの銅鐸が一カ所にまとめて埋められていた。銅剣三五八本が出土した荒神谷とは約三キロの近さだ。周辺弥生集落の発掘成果もふまえ、古代出雲観に強烈なインパクトを与えた加茂岩倉銅鐸群の謎と弥生の出雲世界に迫る。 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) 田中/義昭 1935年、島根県生まれ。1958年、早稲田大学第一文学部史学科卒業。1999年、島根大学法文学部教授を退職。現在、島根県文化財保護審議会委員など(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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去年から今年にかけて、発掘時に銅鐸が発見された総社神明遺跡の現地説明会に何度か立ち会った。改めて銅鐸の埋納状況が比較的はっきりしている加茂岩倉遺跡のことを知りたくて、本書を紐解いた。過去二回ほど加茂岩倉遺跡の現地に赴いたことはある。それにしても、発見時からすでに19年が経っていたとは、今更ながらに時の流れの速さに気がつく。それ程経っても、銅鐸をめぐる謎解明は遅々として進まない。それはすなわち、日本の古代祭祀(政治)の転換期の謎解明が未だ明らかになっていないことを表すだろう。銅鐸は、すべて入れ子状態になっていたらしい。一つだけ入れ子ではなく、39個だったのは、たまたま入る小さめの銅鐸がなかっただけで不思議はないと私は思う。39pの「佐原編年」を元にして作った「弥生時代の出来事と銅鐸の鈕の変遷」表はわかりやすかった。2式(外縁付鈕式ー前2-1C)は28個、2式と3式(扁平鈕式ー弥生中期から後期)の中間(前1-西暦0年?)は2個、3式-2(1C)は6個、3式-2もしくは4式-1(突線鈕式ー1-2C)が3個出土したらしい。※「2式」等は本来アラビア数字なのだが、ブログが受け付けないので、こういう書き方にします。この最新の3個は、彫り物の表現が、左利きになっていることから、同一の鋳物師によって作られたことが確認されたらしい。読んでみて、兄弟銅鐸の謎とかには大きく筆を割いているけれども、結局「なぜこれ程大量の銅鐸をここに誰が、そしていつ埋めたのか」については、ほとんど明らかにしていない。残念である。当然最後の銅鐸(1-2C)以後に埋納されたはずで、それ位は書いても良さそうなのだが、それさえもスルーしている。西暦2世紀に出雲で何が起きたのか。ただ、日本列島における青銅器時代の中心を、弥生時代中期におき、古代出雲をその時代の「駅商国家」として描き出そうとする著者の意図は伝わった。北九州辺りから辿りついた農耕民族が、やがて出雲市周辺に幾つかの拠点集落(矢野・青木・中野美保・後谷・天神・古志本郷・真名井)を築き、発展させていった。田和山遺跡も、角田遺跡の大型壺の線刻画もその時期のものだった。だから、数十年から数百年で急速に彼らは田畑が広がる「村落」を「開発」していったのだ。景観は急速に変わる。その不安を払拭するためには、新たな祭祀が必要だっただろう。武力は必要なかった。物語があれば良かったのだ。或いは歌か。土笛の普及はそれを助けたかもしれない。しかし、そうやって作ってきた村落共同体が西谷墳墓群のリーダーたちによって否定されたのかもしれない。だから銅剣・銅矛・銅鐸などが突然埋納されたのだろう。いったいどういう激動があったのか。しかし、この本では想像さえつかない。2015年10月12日読了
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